『相続放棄』

受話器を取ると、ご高齢の女性が困惑した口調で尋ねてきた。

「相続放棄の文書を英訳していただきたいのですが、ご対応が可能ですか? 出生届受理証明書という書類の英訳もお願いしたいのですが・・・」
言葉遣いから、お年の頃は70代の方ではないかと想像した。

「その英訳した文書は、どういう用件でどこの国に出すのですか?」
正直ちょっと面倒くさかったので、事務的な質問を返した。

「アゼルバイジャンという国に住んでいた息子が所有していた財産の放棄です。」

この会話で、ご婦人の息子さんが日本から遥か彼方のアゼルバイジャンでお亡くなりになったことを知り恐縮した。
また、万難排してお手伝いしなければならないと感じた。

相続放棄に関する日本語文の見本をファックスでいただき、その内容を校正してから英訳を付けてファックスを返信した。

「内容は大丈夫だと思うのですけれども、これからどうすれば良いのですか?」

ご婦人に公証役場の場所をお知らせして、公証人の面前で宣誓供述し、英文の認証文を付けていただくようお願いした。

今日はご夫婦が翻訳代のお支払いにいらした。出生届受理証明書の英訳をお渡しし、躊躇しながら息子さんのことを伺ってみた。

息子さんは青年海外協力隊でご活躍の後、日本企業の社員として世界各国でお仕事をし、英語、スペイン語、ロシア語・・・多くの言語をあやつる国際人だったそうだ。

「仕事ばかりで自分の健康はまったく気にかけていなかったようで。すい臓がんが見つかったときには、既に手遅れで・・・」
お父様が寂しそうにつぶやかれた。